東京支部謡曲同好会
観世流「船橋」を鑑賞
平成26年3月5日開催
 東京支部謡曲同好会では、3月5日(水)午後1時より第13回「国立能楽堂で能を鑑賞する会」を開催いたしました。当日は生憎の雨天でしたが急病の方を除いた15名の方が参加し、鑑賞会は盛会裏に4時前に終了いたしました。その後、記念撮影の後、散会致しました。
  当日の定例公演の番組及び内容は次の通りでした。
狂言   法師ヶ母  シテ 山本東次郎(大蔵流)
 酔った勢いで妻を離縁した夫。酔いが醒めて後悔し、狂乱の態で妻を尋ねまわり、親元に帰る妻を見つけて…。
   船  橋  シテ 武田 尚浩(観世流)
東路の佐野の船橋とりはなし
 船橋を渡り逢瀬を重ねる男女。二人の間柄を快く思わない親は橋板をはずし、男は川に落ちて沈んでしまいます。「万葉集」を題材に描く恋の妄執と救済の物語。
 当日の参加者、伊藤卓爾さんより、別記の鑑賞記を寄せていただきましたのでご覧ください。
 池田 幹事 記
 
   後列 新井・布施木(娘婿)
   中列 三木・池田夫人・中村・森・布施木・水沢夫人・水沢・池田
   前列 沖・伊藤   の皆さん
写真を撮らず帰宅された方
   塩浜夫人・星野夫人(池田友人)・鈴木夫人(池田友人) 計15名
 
 大鼓(おおつづみ)の「船橋」
伊藤 卓爾 
 ことしは3月5日、恒例の能鑑賞会に「謡曲同好会」の池田(恒)さんに誘われて国立能楽堂を訪れた。お元気な三木先輩のまたもや新しいカメラで撮られた写真(掲載)のように、同好の元気なメンバーや塩浜夫人にお会いできた。この頃は自分の事ならずとも家族のことで年一度の鑑賞会に出られない人もいる。

 公演の狂言「法師ヶ母」は、したたかに酔っ払った夫が、酒の勢いで妻に離縁を言い渡して家から追いだし、酔いが醒めてから後悔しきり、物狂いとなって妻を探し回り、妻に帰ってくれという嘆願に笑いを誘うスジ。橋掛かりにいきなり酔っ払いが出てきて「管(クダ)を巻く」様は、言葉も仕草も現代同様大変よく分ったが、後半の妻を探し求める段のセリフが殆ど聞き取れない。これは耳が遠くなったせいかもしれない。あわてて観賞用のパンフを買った。だが、セリフが聞き取れなかったのは、こういう夫の心情を今更(?!)と嫌がる拒否反応ではなかったのか。耳も心も聞こうとしなかったのかも知れない。心理学か何かで聞いたような気もする。なお、法師と言うのは、子どものことで、法師ヶ母と言うのは、子の母で妻、ということであった。演題もくだくだしかったのであった。

 能(観世流)「船橋」で、まず驚いたのは、大鼓(オオツヅミ、タイコは太い字の太鼓)。この響きが強いこと、これが囃子方をリードしていることであった。この大鼓(オオツヅミ)の力強さが小鼓(コツヅミ)と掛け合いをしているような鼓音も、音楽にはサッパリのぼくなりに、快く感じたことであった。
 「能は笛だ」と、能の初観賞以来、ぼくは思っていた。特に、フィナーレの笛が、円柱のごとく吹き抜いた笛の音の、その円柱を、名刀でスパッと切り落したかのように、全館に響き渡っていた笛に音が、突然、スパッと消える瞬間(!)、あの瞬間の静寂(!)、これがなんとも素晴らしく好きなのである。
 しかし「船橋」では大鼓(オオツヅミ)が力強いパンチの効いた鼓音の魅力で終局までもっていった。さすがである。これが観世流だというのか、この曲の特徴なのだというのかは知らない。お蔭さまで、大鼓(オオツヅミ)の魅力を新しく知ることができた。
「船橋」と言うのは、千葉ではなく、佐野の船橋で、「川の渡し」に纏わる話である。話は万葉歌の替え歌から展開する。

     東路の 佐野の船橋 とりはなし
          親し離(サク)れば 妹(イモ)に逢わぬかも

この歌の「とりはなし」が、「取り放し」(橋板の取り離し)なのか、「鶏(トリ)は無し」(鶏が見つからない)なのか、と問う。この話の入り方は、中世には一種の言葉遊びとして面白がられたかも知れないが、現代ではフーンと頷く位であろう。この二つの話は、それぞれ背景と哀話が語られる。橋から落ちて水死した男は、恋女に逢いたい執念・妄執のあまり、成仏を妨げ苦患に苦しむ亡霊・悪鬼になる、と、話は膨らんでいく。船橋とは、鎖や綱で繋留した幾艘かの舟の上に橋板を置いて造った橋を指す、とある。鶏(とり)は「川に沈んだ死体の上で鳴く」という伝承をもつ鶏という。初めて聞く伝承であった。

 もう一つの印象は、足で床をトンとやって調子をとるのが、ドンと聞こえて耳障りだった。能の用語が分らないので、これを「足踏み」と仮に言うとすると、今まで観てきたものとは違って、響きが大きく、早く強く踏む所作もあって喧しい位である。盛り上げる音響効果としては行き過ぎだ、と思う。しかし、能のことだから、これには何か意味があろうと売店で聞く。お薦めで「能の音楽構造概観」と目次にある『横道真理尾の能楽講義ノート【謡編』(檜書店、CD付きで、\3,450.)を買った。足踏みの記事を期待して求めたのだが、何もなかった。「能楽略史」「能の役柄」には耳新しい解説もあったが、「謡」をやっていないぼくには、後半の講義はトンとわからない。本は買わない、としているのだが・・・、また失敗した。

 足踏みのヒントは、なんとパンフの特集にあった(大森恵子「瓢と踊念仏」)。
『空也上人絵巻』には、「行者茶筅」と呼ばれる空也僧が鉦や瓢を叩きながら念仏にあわせ、反閇(ヘンバイ、足踏)を主体とする乱舞、即ち踊念仏をして死霊の回向(エコウ)をした様子が記載されていた。
とある。そう言えば「船橋」の足踏みは怨霊の所作にあったようだ。とすると成仏の願いにかかわらせたのかもしれない。この反閇(ヘンバイ、足踏)は、空也の念仏踊りと皆が知っている時代、その記憶がある中世に、能に取り入れたものにちがいない。 
 新井さん沖さんと二次会で酔っ払った勢いの法師の父の一文でご免蒙りまする。  (了)

(2014・3・7) 
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